不快充満エレベーター
打ち合わせに呼ばれると、いつも憂鬱になるビルがある。
たかが地上13階建ての一面ガラス貼りのオフィスビル。ほそ長くて、逗くから見るとハーモニカみたいだ。1階ロビーは天井が高く、窓がでかくて太陽光がこれでもかと入ってくる。床が大理石なもんだから、スニーカーで行こうものならキュッキュッキュッキュッと神経にさわる音がする。汚れたジーンズで入ると、警備員に止められる。俺はもう何度も止められた。警備員は人の顔を覚えないバカ犬みたいな男で、飛猿(水戸黄門)に似ている。
このビルの目玉は、シースルーのエレベーター。たかが13階のくせに空へ直行するかのような透明なエレベーターで、まあまあ景色もいい。
事件はそこで起きた。
ドアが開くと、
不穏な空気が立ち篭めていた。
乗らなくてもわかるほどの臭い。
屁
乗っている4人は、こちらを見ない。背広のおじさんと、その部下らしい若い男。作業服のおじさん。グッチのバッグを持ったケバい姉さん。皆、4角に位置し、俺と目線を合わせない。ケバい姉さんはご丁寧に「開」のボタンを押しっぱなし。乗らないわけには、行かない空気。
俺は最上階のボタンを押し、奥のまん中に位置どる。階数を示すボタンが光っている。地下から上がってきたエレベーターは10階と最上階13階に停まる予定だ。青空へ向かって、屁に包まれて、俺たちは上昇した。
ケバい姉さんは何げなく、左手軽く握りを鼻の下辺りに置いている。誰がしたの?臭いわ、というポーズ。部下らしき男は足をもぞもぞさせている。早く着かないかなあ、という無実のフリ。背広のおじさんと作業服のおじさんは何度かせき払いをした。
エレベーターは、6階に停まった。おばさんが3人も乗り込んできた。ビル全体が分煙になってからというもの、喫煙者は偶数階にある喫煙所に吸いに行くことになったから、こんなシーンが増えた。
乗り込んできた一人目のおばさんは顔のシワを中央に集め、鼻の前で手をブンブン振った。二人目のおばさんは大げさにセキこんだ。最後のひとりは眉をくねらせながら言った。
「すごいわね」
景色のことではないと思う。おばさんは、俺を見ていったような気がする。だが、何を証拠として、俺は無実を証明できるのだろうか。顔には出さない焦りも虚しく、6階で乗った三人のおばさんは、7階を押した。お前ら階段使え。
7階に着く。おばさんたちは降りた。開いた扉から、新鮮な空気が入ってきた。臭いが薄れていくのが分かる。いいぞ。と思っていたら、部下らしい男が「開」のボタンを押しッぱなしで閉める気配がない。換気か?と思っていたら、背広のおじさんがゆっくりと降りて行く。部下もそれに続いていく。おいおい、汚ねえよ。お前ら降りる階じゃねえだろう。俺も降りようかと迷っている間に扉は閉じた。
だが、これで犯人はしぼられた。俺の推理はこうだ。上司のこいた屁に部下が気づかって「ここで降りましょう」と失礼なことをするわけがない。逆に「すいません、俺の屁くさくて」と上司を降ろそうとする部下がいるだろうか。普通に考えれば、そのまま目的地まで知らんぷりだ。少なくとも俺には恥ずかしくてできない。あいまいな理由だが、確信がある。二人はあくまでも無実を主張するために降りたように思える。
それほどの、臭いなのだ。明らかに下痢をしている。空気にいやなぬくもりがある。胸の奥からむかむかしてくる。できるだけ鼻で息をしないようにしているが、口から吸い込むのも気持ちが悪い。うつむき、セキでもするかのように握りこぶしを口に当てて、今、そのスキマから息を吸い込んでいる。これは、ケバい姉さんが発見した技だ。なるほど、これはあまり臭くない。
作業服のおじさんか、ケバい姉さんか。俺はエレベーターの隅で腕を組み、じっと二人の背中を見る。10階で作業服のおじさんは降りた。10階には、同じ作業服をきた人が沢山いて、内装工事が行われていた。ドリルの音が響き渡ったとき、俺は確信を得た。こんな環境なら作業服のおじさんは、いつでも派手に出せるではないか。わざわざ、エレベーターでする理由はない。
ケバい姉さんは(もう観念したのだろうか)少し肩を落しているように見えた。口に当てていた軽く握った左手は、だらりと降ろされ、ぶらりとしている。右手のグッチのバッグは弱々しく揺れている。犯人の自供が終わったかのような静寂が降りてきた。もうすぐ最上階、13階だ。
思えば、なんだか可哀相な女性だ。地下で屁をしてしまった。その秘密を3人の男に知られてしまった。また男が一人乗ってきた。さらにおばさんも三人乗って、すぐ降りていった。逃げるように男たちが続いた。そして、最後に、バレた。
ケバい姉さんの腹から「キュウ」とイルカの泣き声みたいな音がした。
もうエレベーターは臭くなかった。いや、鼻がマヒしているだけなのかもしれない。怒る気持ちも、問いつめる言葉もなくなっていた。ただ、つかれていた。13階の扉は開いた。彼女は「開」のボタンを押しっぱなしにしている。俺は、先に降りる。何か声をかけようかと思ったが、何を言えばいいのだろう。俺には分からない。屁でもこいてやろうかと思ったが、そんな会話があるのか。人間には言葉がある。だが臭いは、いま、言葉以上に雄弁である。
オフィスのドアを開き、内線で担当者を呼んだ。担当者は、先程のケバい女を連れてきて「新人です」と紹介した。
俺は言葉を失った。
担当者は言った。
「何、知り合い?」
彼女の顔はひきつった。
「ええ、さっきエレベーターで‥」
彼女の香水は、すごくきつかった。
TEXT BY 編集長
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