映画・テレビ

2009年9月25日 (金)

そろそろ「こども店長」に引導を。

敬老の日に民放でアカデミー映画「おくりびと」を流していた忌みを考えていた。老いから死への助走に入った人たちはどういう気持ちで観ていたんだろう。また、その人たちに、テレビはどういう感想や表情を期待していたんだろう。敬老の日に、なんど葬式の家庭を観せられたか知れない。そのさまざまな葬の景色が、観ている老人たちの過去の思い出と重なり、近い未来の世界と重なることを想うと、笑えない冗談になったりする。親の葬式に笑いをこらえていた蛭子さんレベルにしかわからないジョークだ。

その「老」との激しいコントラストで「若」がぴかぴか輝いたCMも流れていた。こども店長である。こどもだから、というだけで大目に見てきたが、いよいよ鼻についてきた。うぜえ、と書くだけで悪者になったような気分にさせられるのが、なによりも鼻につく。批判のスキひとつない絶対正義。「こども」という記号だけで存在する、中身がすっからかんのカワイイCMを観せつけられると、批判する自由も気力も奪いにくる狡猾さに反発したくなる。「あのCMはきたねえよ」くらい言わないと、未来はないし、世の中つまらん。

ほんとにさいきん
「かわいいね」というCMが目にあまる。

ソフトバンクの犬については、もうソフトバンクも展開に限界が見えててきて、人気があるから引き際を見失ってる感じがしてて、なんか同情はしている。

当初のデキは良かった。獣姦をにおわせる影のある設定でありながらもアットホーム。ハラを抱えて笑うことはないが適度な毒があり、おもしろすぎない絶妙のほほえましさが憎たらしいくらいうまかった。この簡単なように見える高度なバランス感覚を知らずに、「かわいい」というパッと見だけをまねして無惨に失敗しているCMが相次いでいる。

多すぎるので、とくにイラつくものだけあげとこう。

●エネオス
つまらなすぎるコントをゴリラにさせて質の低さをカモフラージュし、お笑いに影響されたバカ女のように自信たっぷりで突っこむOLがでてくるやつ。

●キューブ
うすら笑いのシニカルなイメージで視聴者にこび過ぎないキャラづくりをねらったが、結局は神経を逆ナデするだけになってしまったことに気づかない、シカがでてくるやつ。

●アフラック
「アヒルのかわいい」+「ネコのかわいい」=かわいい2倍、という式を信じきっている、思考停止のあきれた間抜けぶりがにじみでてるやつ。

●トヨタ シエンタ
「けんたきゅんきゅん、ママにきゅん」という人間のIQを下げる呪文で、味方よりも敵を増やし、親バカさん以外の人をムカつかせるために作っているとしか思えない、幼稚さが画面からあふれでてるやつ。

ほんとにさいきん
「むかつくね」というCMが目にあまる。

「かわいい」と「愛される」は違う。その違いは「弱さ」である。弱さがあるものは、かわいいをこえて、愛されるところまでいく。ゴリラにも、シカにも、アヒルにも、ネコにも、ガキにも、かわいい以上の感想をもつことはできない。かわいいの押し付けは、ナルシズムの共有を迫られているだけだから。影を描かなきゃ、光はみえない。ソフトバンクの犬には影がある。そこには、同情や共感や親近感をまぎれこませる余白が大きく残されている。あの犬が「愛されるCM」になったのはそこが理由だと思う。正直、もう飽きたけどね。

TEXT by 副編

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2009年5月15日 (金)

「大人グリコ」のうまく言えない後味の悪さ

誰もが最初は「おっ!」と思ったはずなんだ。でも、こうして連作を見てくと、見たかったような、見たくなかったような、モヤモヤとした感情が胸に広がってくる。しかも、いろんな種類のモヤモヤが混じってる感じ。グリコのCM「25年後の磯野家」は、そんな複雑な後味をかもし始めた。批判が難しいCMだ。だから、丸飲みして、面白いね、と言って片付けたほうが楽である。

でも、胸に気持ち悪さがどうしても残るので、整理しておきたい。

まず、人気マンガの実写版というモヤモヤ。古くはジャッキーチェンの「シティーハンター」。最近ではアメリカ版「ドラゴンボール」。どちらも「誰が望んだ実写化なんだよ」というやつだ。でも、サザエさんって「人気マンガ」なんだろうか。長年愛されてきた国民的アニメ、と呼ぶことはできても、人気マンガとは呼びにくい。スラムダンクとかと並列にはできないだろう。

これはマンガの実写版ではなく、国民的アニメの実写化である。だから既存の実写化に対する批判がちょっとズレている気がしてくる。しかも「25年後」という批判のズラし方が効いていて「あくまでも25年後ですから」というお目こぼしが期待できる。しかも放送が終わっていない。現役である。これまた前例がないから、扱いにくい。なにかモヤモヤをぶちまけられるとしたら、

「原作者に失礼だ」

という、怒りだろう。どんな実写版でも一番怒るのは熱烈なファンである。でも、ここで疑問。

「サザエさん」に熱烈なファンなどいるのだろうか。

サザエさんは、長い年月をかけてみんなが共有してきた幸せの家族モデルである。古き良き日本の風景みたいなものだ。昭和ニッポンの家族像であり、古典みたいなところにまで足をつっこんでいる。すんごく好き、という人はいないし、すんごく嫌いという人もいない。「サザエさんが大好きですか」という問いに「すっごい好き!」と答える人はいない。だから、怒る寸前にひとつの疑問が心をよぎる。

「俺って、そんなにサザエさん好きだったか?」

どっちでもないという人が大半だ。そんなに言うほどのことでもないし、という歯止めがかかる。でも、なんか口をはさみたくなっちゃうんだ。

カツオが、浅野忠信かぁ。
ワカメが、宮沢りえねぇ。
タラが瑛太で、イクラが小栗旬なんだ。

別にいいんだけど、そうじゃないんだよな、という感覚。はじめは目につかなかったものが、連作を通して細部がだんだん気になってくる。キャスティングとか、その後の設定とか。一発目に感じなかったものが、二作目、三作目にじんわり浮かんでくる。しかも、それが力説すべきものではないところがやっかいだ。

それだけ「サザエさん」という他愛もないものが、大切なものなんだと思う。日本人に深く根ざした「深層心理の善」なのだと思う。原作に敬意をはらって、とてつもなく丁寧につくってるのはわかる。しかし、誰もが納得しなければならないCMはないけれど、誰もが納得しなければならないネタを取り上げていることに対して、自覚的なのかを問いたくなる。日本総国民を相手にしていることに気づいているのだろうか。

グリコにそんな気はないと思うのだ。

CM史に残る「作品」かもしれないが、今はいいけど後々の後味が微妙になってくる。どうしても気になるはずだし、無理が出てくるはずだ。びっくりした、でやめときゃいいのに。金がらみのCMじゃなくて同人誌でコソコソやったり、酒飲み話にしとくのがちょうどいいネタである。サザエさんの未来をいじっていい企業などない。サザエさんは、みんなのもの。

「25年後の磯野家」は、サザエさんの未来化を通して過去の幸せを教えてくれた。何気ないものが幸せだったんだな、って気づかせてくれたことに関しては感謝している。ただ、そのことが分かった今、次回作がオンエアされるたび「これって、やっちゃいけないことなんじゃないか」って気づきはじめている段階だと思う。少なくとも俺の後味の悪さはこれだ。このCMって、何気ないけど、すんごい大切なものを傷つけているんじゃないかって。続編ができるたびにハラハラする。気にしすぎか。

text by 副編

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2009年5月 1日 (金)

北野誠謝罪会見のすばらしき茶番

歴史と伝統が培った上質なホスピタリティを備えるウェスティンホテル大阪で、北野誠が謝った。何について?誰に対して?

「慢心があり、未熟さが出てしまった。」

だから、それは何のこと?

「あらためて発言することによって、むし返すことになり迷惑をかける」

じゃあ、これ意味あるの?
と、問いつめる人はいない。

今回の題名のない謝罪会見は、ネットで流れている予備知識がけっこう正確であることを示したと思う。
そして、

「本当のことは、電波では伝えられない」

ということを、ますますくっきりさせた。テレビには言えないことがある、だから言えないことのほうに興味がいく。テレビがつまらなくなったと言う人がいるが、テレビに映らないことのほうが面白いことに気づいたから、つまらないと思えるようになってきたんだと思う。

こうなると、テレビは「まっすぐ伝わらないこと」を念頭に作っていくしかない。

美味とかお得とか誠意とか努力とか「善きこと」ほど嘘くさく、失言とか犯罪とか脱税とか「悪しきこと」は拡大される。 今だにテレビショッピングの芝居にだまされる人はいない。悪は極悪に、善は偽善に。その真実の原形は残らない。
こういう状況が加速してるから、テレビはどんどん卑屈になって自己否定をしつづける。

「テレビじゃわからないと思いますが、これすごく美味しいんです」
「テレビでは見せられないけど、自衛隊の実力は凄いんです」
「オンエアできないんですけど、楽屋では面白いんです」
「番組では恐い人に見えるけど、ふだんは凄くいい人なんです」

なんだかこればかりも、あまりに芸がない。
こんなことばかりしてるから、結局テレビは「虚」だからつまんない。と言って、ドキュメント番組を礼賛する人が現れる。反対に「虚」でもいいよとありきたりのバラエティーの作られたお笑いを楽しむ人がいる。極端に、二種類の分かれ方をしていくような気がする。もうちょっと意識して虚と実の間を笑って遊んでいいと思うんだが。「ガキの使い」みたいに。

ラジオでは伝わらないこと。
テレビでは伝わらないこと。
ネットでは伝わらないこと。

というふうに、どれだけ技術が発展しても「伝わらない」ほうに魅力は残る。価値がありそうに聞こえる。それは、埋められない真実の余白、つまり想像できる部分が一番面白いからだと思う。ヘアヌードよりセミヌードのほうがそそられる理屈だ。

そういう意味で言うと、北野誠の件は現代メディアをフルに使って、想像力をかつてないほどに刺激してくれた。これからのテレビに求められる評価されるべき「すばらしき茶番」だと思う。テレビというボケが、ネットというつっこみをはっきり認識した事件、と言い換えてもいい。

text by 副編

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2009年4月 9日 (木)

エンタレベルの「あるある」CM。JT Roots

Ruutsu_2


共感、なんて二文字で書くと、さも考えた感じがするもんだが、要は「あるある」である。「わかるなあ」と多くの人から支持を集めたりしそうだが、もうね「飽きたなあ」と断ずるべき。

ルーツ飲んでゴー。

は、そんな典型的なあるあるネタ。
この「ネタ」をエンタの芸人の誰かがやっているところを想像したら、つまらなさのほどがよくわかる。

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[ルーツの広告文]

朝一番に
出社してみたが
特に意味はなかった。

気分のいい朝は
たいてい何かを
忘れている。

件名がすでに
不穏な空気。

口調以外
まったく
やさしくない。

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社会の微妙な人間関係を描き出し、現代人のつぶやきを拾い上げ、多くの人の支持・共感を集めた広告。と、言うこともできるが、要は「サラリーマンあるある」です。それ以上でも以下でもない。

坂口憲二の演技の古さと、設定のベタさ加減にも触れておこう。

・雪の中、携帯電話で話しているとオートロックのドアに閉じ込められてしまう。
・女性とのドライブ。バックをする仕種で、助手席の女がさりげなくさける。

よくありそうな話ですね。

CMである、というフィルターをはずせば、選ばれしエンタの客だけが笑えるレベル。このCMは、時代が止まっている。だけどCMであるが故に、それが見逃されているような気がする。必死でネタを作っている、芸人たちがかわいそうになる。

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[ルーツの広告文]

新人がお得意先に
「お疲れ様です」
と言っている。

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すっかり、あるある探検隊ですね。
「レギュラー」という芸人を思い出します。


この手のたぐいは、
もういいよ、と誰かが言わないと、
面白いと思って、ずっと続けるだろうな。

だから、もういいよ。

text by 副編

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2008年10月22日 (水)

岸部四郎の空しさを追体験する空しさ

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自他虐CMというのは、余裕があるから楽しめる。

「金はない。時間はある。」

岸部四郎だから笑っていられるけど、年金暮しの老人が出ていたら、笑えない。出てはいないけれど、実際に苦しい年金生活者はあのCMが流れたら、割とシリアスな表情をすると思う。若者には「金はない。時間はある。」の後に「じゃあ働けよ」と続けることができるけど、老人は「でも、どうすれば‥‥」となる。ケータイゲームでもやるかな!となるほどの開き直りはムリだろう。ふつう老人ゲームやんないし。

「金はないけど、時間はある。」のが青春で、「金はないのに、時間はある。」というのが年金暮らしである。どっちにもとれるわけだが、後者の「時間」は残酷である。岸部四郎を笑っているつもりだが、金のない老後を送っている人もいっしょに笑っている、と考えるとひどいCMだ。あのCMを悪者にするつもりはない。でも、面白いけど笑った後の後味が悪いような気がしませんか。そんな気がしない人は、幸せな人だと思う。

自虐ではなく他虐CMではあるが、岸部四郎が許される人格だったりしているから、まだ救いがあるように見える。岸部四郎の実人生のリアリティーはあるけれど、岸部四郎の実人生は一般人にとってフィクショナルな感じがする。金はゼロどころか、マイナスだし。だから、社会的弱者じゃなくて岸部四郎の人生だけを笑っているという気持ちにさせられる。キャスティングの妙と言える。

けれどもだ。そもそも「金はない。時間はある。」だから「ケータイゲーム」というのは果てしなく空しい人生である。読書があったり、人と話したり、季節のうつろいを楽しんだり、いろいろあるが、この選択肢は寂しい。あのCMが教えているのは、ケータイゲームそのものの空しさである。ゲームというのはそこまで悲しいものではないけれど、そういう切り口で描いている。

だから、あのCMに共感してサイトにアクセスしてゲームしている人がいたとしたら、自分が笑われていることに気づいていない人である。そこには岸部四郎の人生はなく、自分の人生が広がっているわけだから。金はなく、時間だけがあって、小さな画面を見ながら指をうごかして過ぎてゆく1日がある。ただでさえ空しいのに、CMが描く岸部四郎の人生とリンクして、その空しさは底なしである。岸部四郎の空しさを疑似体験してみたいという悪趣味で楽しむならば、まだ楽しめるかもしれないが。

Kishi

ケータイゲームは、人生の空しさを教えてくれる。金持ちはケータイゲームはしないのである。そう思ったとき「世の中は金である」というCMに見えた。

text by 副編

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2008年4月 7日 (月)

クイズ番組はバカ発見装置

人気というやつはいつも知らないところで作られる。人気というやつはいつでも自分から発信するものではないからしかたがないが、近頃は目を離しているスキに虚構な人気が演出されている気がしてならない。

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3/4に発売されたばかりなのにサントリーの「ゼロナマ」の支持されてる感、アサヒビールの「クリアアサヒ」はあきらかにすべっているからいいとしても、キム兄のCM連発、西川史子の出演乱発などなど、露出が多ければ人気があることになっていることが多い。

朝、すこしだけ二度寝したつもりで時計をみると、もの凄く時間が進んでいることがあるが、あの感じに似ている。いつの間に‥‥うそだろ‥‥、とテレビを観ても思う。サトエリとやらのCM人気もどうしてこう落ちないものか。切る理由は腐るほどあるだろうに。もうひとつ。ツバキのCMは出演グレードが落ちてるのに勢いで乗り切れると思うなよ。

で、最近とみにそう思うのが、クイズ番組。クイズ番組が氾濫しているからといって必ずしも日本人クイズ大好き、というわけではないと思う。確かに簡単に作れて経費もかからず、出演者そろえりゃ一丁あがり。という作り手側のインスタント感はあるんだろうけど、ここまで乱発されるとそれ以外の理由を探したくなる。

ちょっと前の時代なら、クイズ番組は家族だんらんの場で、みんなでクイズを答えることがコミュニケーションを深める、とされていた。が、理由としては賞味期限が切れている。後の理由として頭に残るのは、紳介のせい、である。

Sinsuke

レディーゴーとかアンサーチェックとかやたら英語をつかう紳介のクイズ運動会をはじめ、クイズ!紳介くんやヘキサゴン、行列のできる法律問題番組などなど、まぁクイズといえば紳介な時代だが、クイズがおもしろいのではなく紳介の力が発揮しやすいシステムが理由だと考えると話が早い。紳介の仕事とは、人間の弱いところを見つける、である。クイズ番組とは正解者を見つけるのではなく、不正解者を見つけるのが目的である。そこが強く結びついている。紳介が売り出したのはバカ発見装置として特化し、クイズを形骸化させたクイズ番組である。

古き良きクイズ番組とかはクイズの正解や、クイズのアイデアそのものにスポットがあたっていた。だが、今はその間違え方やその間違える人を探すことに比重が置かれちゃってる。今、はらたいらには脚光はあたらない。今さら言うことでもないが、ヤな時代だ。そう思わせないために、紳介はそのフォローとしてちょっといい話をするから、バランスがとれる。とれてるつもりだろう。

昨日はじまった「クイズジャパン」ってのもそういういい話を抱き合わせで売る番組だが、紳介のシステムより数段下だった。別番組が入ってるだけに見えた。クイズをやる意味を完全に消しちゃった。紳介の変わり身のうまさがいかに絶妙か、思い知った気がした。

結果、番組から感じたのは、ジャパンとつけた大仰な名前から感じる、これがクイズ番組の新定番!って演出だけ。これも勝手に人気があることにしようとするタクラミがありありと見える。だが反面、ピークは飽きの始まりであるからして、もう限界は見えた、と観られて逆効果。早々に消えるだろう。おつかれさまでした。

Tsuruhei

個人的には司会が鶴瓶というだけで終わってる。こんだけ長年やってて師匠感が薄い。しかも老いてて判断も鈍い。番組的にオールターゲット狙いすぎ。

text by 副編

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2008年3月12日 (水)

泣ける映画は、こころの風俗。

人は液体を出すことに、快感を覚える生き物だと思う。さわやかな順に例を並べると、汗をかく運動、涙をこぼす体験、せいえきを分泌するセッ○ス、血液を流す闘争‥‥グロくなるのでこのへんでやめる。

なかでもこの「カラダから液体を出す」という現象がもっとも美化されているものが「泣」だと思う。最も美しい排せつ行為、と言えるかも知れない。涙の理由は科学的にはっきり解明されていないし、心の作用だからそれぞれに違う。なぜ、涙が出るのだろう、とか、わざとらしく問いかけてくる青春の腐臭漂う歌詞があるが、流している本人は説明はしきれないけれど、なんとなくわかってる。言いかえると、なんとなくしか説明できない。説明しきれる涙はない。

解明されていない、ということはオカルト的でもあるわけなんだけど、なぜか怪しさや不思議は漂わない。涙を流すということがどういうことか、科学をこえた実感があるから。映画で泣くのは、そこに自分と重ね合わせる部分を見つけて、感動のエピソードを自分のものとしているからだと思う。母が恋しい息子は、母が死ぬシーンで泣くだろう。男に捨てられた女は、ヨリを戻すシーンで泣くだろう。映画に泣いているのではなく、映画と自分の体験との重なる部分を見つけて、泣いている。

単純に言えば、それはイメクラである。

例えば、かっこいい男が出てきて、うつくしい女と恋をする。別れる。もしくは、どちらかが死ぬ。悲しいエピソード。そこに自分を投影する。わかりやすいほどベタな筋書きは、欲望をダイレクトに解消する風俗を思わせる。

なんで、泣きたいのか。ストレス発散とか、気持ちいいから、という生理のお話に他ならない。「泣ける○○」とは、生理的なものを解消するために、直接的な方法をとっているということだろう。「泣ける映画」に飛びつく人を気持ち悪いというか、なんだかなぁ‥と思う原因は、脇目もふらずに風俗に直行するオヤジに対する嫌悪感と似ているからかもしれない。

「泣ける映画」に行く人は、風俗的な欲求の解消に後ろめたさを感じていない。気づいてすらいない。涙って美しいもんだから。でも、欲望まるだしってどうだろうか。これじゃイメクラだ、と思った瞬間、私はその映画ではもう泣けない。でも、気持ちいいから泣く、という自分の生理的欲求に正直な人もいるだろう。編集長なら、その気持ちはわかるはずだ。

「泣ける」という動詞は「自然と泣いてしまう」という意味の自発表現だったが、いま可能動詞の「泣くことができる」という意味に変わっている。その用法は、可能動詞「ヌける」と似ている。欲求の解消が第一目的、というような生臭い用法であることが「泣ける映画」を観て泣く人に対する嫌悪感の正体なのかもしれない。映画の観客が「泣けました!」とかのたまうCMがあるが、大げさに言うと「ヌけました!」と言ってのけてるもんである。その人にとっては、映画はこころの風俗なんである。なんだか下品だなぁ。

泣けるベタ映画に行く人は、イメクラに通う人と変わらない、と思う。そこに行く人は悪くない。ただ、もうちょっと恥ずかしがってもよくないか。

以上、オカズが多すぎる「陰日向に咲く」の感想でした。

Text by 副編

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2007年9月14日 (金)

モンドセレクションの落とし穴

Pre_mal

プレミアムモルツは最高金賞である。世界最高の証。しかも3年連続。どうだ凄いだろう。というサントリープレミアムモルツ(以下プレモル)の自信の根拠は、すべて「モンドセレクション」の権威にある。

ここ数年で いつの間にやらプレモル=モンドセレクションというイメージが成立。五輪で三連覇した柔道の野村のテンションを思い出す。これもまた、メダル三つで「いつの間に」の天狗っぷり。権威たっぷりの人気はどうにもいけすかない。

そう想っていたところ、「食のオリンピック」とまで称されるモンドの権威が(北海道では?)最近くずれてきた。まず、ホットなところで言えば、石屋製菓の白い恋人も1986年にモンドセレクションの金賞を受賞。プレモルみたいに最高評価の「特別金賞」とまではいかないにしても、モンドの価値を若干下げることに貢献している。

もっとすごいのがホリ。料理研究家の服部先生がCMに出てる「夕張メロンピュアゼリー」は5年連続 最高金賞受賞!プレモルとは格が違う受賞歴。同じくホリの「とうきびチョコ」も5年連続モンド最高金賞!狭き門を感じさせながらも、この乱発気配。ジャンルは違えど、ホリに言わせれば、プレモルはまだまだ青びょうたんに過ぎないのである。

さらにプレモルにとって悩ましい受賞は、函館のタナベ食品。2007年、出品した「いかしゅうまい」等の商品が最高金賞と金賞の五冠を達成。それ事体は喜ばしいことだが、悲劇はCMの圧倒的なまでのダサさである。

Tanabe

「うまいべ!」

と社長らしき人が出てきて言う。「確かに、ダサい」。これも等しく最高金賞である。
モンドの役員が怒ってもいいくらいのダサダサ。プレモル=モンドにローカル臭がこびりつく。最高金賞の一点突破だっただけに、どうたて直すのか。タナベの件はなかったことにして、そのまま行くのか。もう出演してもらったらどうか。

「独自の製法」とか「糖質オフ」とか、味や中身の競争もどんぐりの背比べになってきた。新製品の回転数が売り上げになりつつある今、ロングセラーは生まれにくい。うまいかマズイかを賞の権威で語ってもこんな落とし穴がある。むしろスーパードライのあか抜けない直球感が爽快に思える。

楽なのは、エビスのザ・ホップ。心地よく酔わせてくれるゆるゆるCM。いちばん楽な地点にいるビールだと思う。意味なんて求めないほうがビールはおいしく飲める。

あのザ・ホップの味はそんなに好きではないが、テレビを見ていてひと休みさせてくれる感じは好きだ。あの商品そのものが、晴れた日の公園のベンチ的ポジションなわけだ。無職的な贅沢な自由が新しい。けれども、その無職感が現代の(というか自分の)あこがれのような気がして、すこしせつなくもある。最近、働きたくない。

Photo

text by 副編


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2007年8月 7日 (火)

リーブ21の巫女「和田アキ子」

Teami

リーブ21、といえば私のなかではニット編みの広瀬先生だった。広瀬先生が「第6回発毛日本一コンテスト準優勝」という栄誉を引っさげての登場は衝撃だった。あたまから手編みが大写しになるリーブ21のCMというだけでもうハラいっぱいである。

まず先生が頭髪のことで悩んでいたという事実。そしてコンテスト参加という勇気、さらに準優勝に輝いた発毛力、そしてCMに出てリーブ21の取締役と発毛について語り合うというサクセスストーリー、すべてのものが渾然一体となって深みとコクのある味わいを醸していた。

Hirose

目にした当初は、まるで闇鍋をつつくかのような好奇心をそそられていた。先生のあのスカーフやジャケットのすそ部分のふりふりや内股からは想像もできない発毛力。そして、それ以前に「ハゲかかっていたけれど」という男性ホルモンの猛威にあらがうという中年性‥‥およそ世の中に消化しきれないCMを目にした気持ちになったものだ。どう解釈していいか今でもわからん。初めてみる変化球だった。

とまどう私を置き去りにして、リーブ21のCMは今度は直球で勝負をはじめていった。コンテスト優勝者(素人)へのインタビューという形式で。あの魔球は意識して投げられるタマではなかったのだろう。広瀬先生という唐突をコンテストという無茶なくくりで説明するカモフラージュだったのかもしれない。


で、現在、和田アキ子の再来である。ここで疑問がある。

どうして出演者が中性的なのか。和田アキ子も広瀬先生も、いわゆる「女の客」としては起用されていない、と思う。かといって、ほしのあきのような男のためのルアーとも思えない。想像だが、男性ターゲットの影に女性が隠れているから、だと思う。おばさんもハゲるという事実はちょっとした業界のタブーなのかもしれない、とすら思う。隠れ客がいる。これが、私なりのキャスティングの納得の仕方だが、いかがなものかリーブ21。じゃなかったら、広瀬先生の件をどう説明してくれるのか。

と、まあ積年の疑問を投げかけてみたが、言いたいのはそうじゃなかった。問題は最近の和田アキ子と紳介のCMである。

Shinsuke

紳介がすがるような目で
「アッコさん、リーブ21の発毛って、何か秘密があるんですか」

という問いかけからCMは始まる。リーブ21的には100点満点、一気に結論を導き出す共感をあきらめた強引コメント。白々しさ、という言葉が空虚であるかのごとく、テレビショッピング型を踏襲している。また番組の空き時間という演出が拍車をかけて芝居臭い。

なにより、和田アキ子の、CMに起用してくれた会社に対する恩義を必死に返そうとするかのような熱のこもった芝居は、宗教にだまされている人をみているようでつらい。紳介の真剣に語れば語るほどうさんくささが増すスパイラルが、それを際出たせる悪循環。いつもの紳介の質問は、

「アッコさん、リーブ21のCMって、ギャラどれぐらいですか」

のほうが近いと思う。

和田アキ子はきっと、私生活でもリーブ21を褒めていると思う。さらに「紳介なんかどうや、私が口きいてあげるわ」とキャスティング的助言もしているような気がする。リーブ21との絆はそこまで強いとみた。紳介はもちろん口先だけである。でもアッコさんの前ではリーブ21の悪口は言わない。言わないほうが、アッコさんが幸せだと思うから。

Akko

和田アキ子は、迷惑ないい人だと思う。

text by 副編

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2007年6月28日 (木)

「大日本人」の批評の批評のそのまた批評

なんだか松本人志ブームである。
賛否両論のされ方とか、マスコミの持上げ方とか、
軽い言い方だけどブームって感じだ。
心酔している信者は映画を迷わず賞賛し、
表立ってブームにならない感じが好きだった
ファンにはなんだかやるせない視線がある。

お笑い好きが映画を批評し、
映画好きが笑いを語る奇妙な状況。
その批評はおかしいという批評まで
されて批評されちゃう事態だ。
さらには、カンヌで絶賛とか騒がれる
どんな批評もかきけされる状況で
何がまっとうな情報か判別できない。
今のところ、試されているのは
映画ではなく「松本人志」観だけである。

そういう混乱をさけるために
たけしは「北野武」と「ビートたけし」を
使いわけしていると思うのだが、
そういう賢さがなかったように思う。
ちゃんと批評されたかったとしたら
必要な自浄機能だと思う。

ややこしいので真価を問うのは、
二作目からにしとこう。
映画への「志」の中身は作品を重ねると
浮き彫りになって見えてくるはず。

たけしへの対抗心とか、既存作品への批評とか、
日本の笑いを世界に!とか、
そういう低い次元の動機ではなく、
自分が描きたいものの根本が
雑音が消えた後、にじみ出てくるだろう。

とりあえずは、この松本ブームって言う
批評が批評を呼ぶスパイラル的状況がおもしろい。
ブームとか権威とかを笑ってきた人が、
今度は自分が批評される舞台に上がったんである。
褒められすぎても、くすぐったいだろう。
でも、けなされることは、けなしてきただけに
想像以上に怖いはずだ。

このブームの最たるものが、先月号の
ブルータス松本人志特集「大松本論」

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なんか恥ずかしい表紙‥‥
自分でシャッター押しちゃって‥‥
ナルシズムを消しきれていないのは
らしくない。ブルータスのいやがらせか?

で、中身のほうだが、
芸能人や著名人から松本人志への一人一質問の
コーナーがおもしろかった。

まあ、普通の質問はこんなだ。

「こどもの頃から自信たっぷりでしたか」
「1日だけなれるとしたら、何になれますか」
「コントライブはもうやろうとは思いませんか」
「好きな落語家は誰ですか」
「日本人のいいところはどこでしょうか」

しかし、亀田興毅の質問。

「坊主は頭が臭くなりませんか」

数ある「天才 松本人志への質問」という
期待と興味のまなざしで吟味した言葉とは違う。
近所の子のような、すばらしく素朴な質問だ。
亀田の中の少年的純粋性をはじめて垣間見た。


追記

木村祐一ら吉本の芸人100組が短編映画の監督に挑戦。
というニュース。
芸人のゴールが監督というのは笑えない冗談。
ダバディの成り上がりを想起させる吉本の勘違いぶり。
一方、浜ちゃんはAVの監督でカンヌを狙うという噂。
それは、面白い。

text by 副編

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