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2010年9月18日 (土)

CMの精神が醜悪。日清カップヌードル

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今さら、いうべきことじゃないけれど、あんまり続くから苦痛になってきた。

ミーシャ、ジャミロクワイ、そしてグレイ。話題だからシリーズになっているのだろう。でも、「驚きのあるCM」ということもできるが、正確には「困惑」だ。「笑いのあるCM」ということもできるが、正確には「失笑」である。

パッと見たとき、誰もがまず、アーティストの神経を疑う。名曲はファンとの絆、それを自分からぶったぎる。こんなクソCMですべてを棒にふることはない。それぞれのアーティストをディスって、カップヌードルを買わないようにけしかけているかのようだ。心をこめて、ひどいといえる。

その後に、いろんな低俗に気づいていく。「ビッグネーム」ということもできるが、その前に「落ち目の」という言葉がかくれている。「名曲のパロディー」といえるが、「ただの替え歌」である。しかも圧倒的にクオリティーの低い替え歌。くだらないの一言である。

そして、目立たないが、もっともひどいのが、CMの根本を形成するメッセージ。いったい何が言いたいのか、っていう部分だ。

それが、ただのスケールのでかい自慢なんである。

ノーボーダーのCM。フリーダムのCM。そして今回の「この味は、世界にひとつ」シリーズ。日清の看板商品カップヌードルは、ほかのカップめんにはできない、とにかく話題になるどでかいことをやらかそうとする気概は見える。だが、世界を意識した企業エゴだけがふくらんだCMは醜悪だ。客を無視した企業の自己満足CMをいつまで続けるのか。会社がでかいのはわかったよ。世界企業なんだね。日清が訴え続けているメッセージは、俺たちの商品はすごいだろう、という自慢だけ。自慢ばっかりしていると嫌われる。簡単なことだ。

CMのもっとも醜悪な形を、日清は追い求めている。アーティストとファンの絆が楽曲であるように、商品と消費者の絆はCMだったりする。自己満足は、世界中の誰ひとり幸せにできない。すべてにおいて低俗な、近年まれに見るクソCMである。


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