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2009年5月15日 (金)

「大人グリコ」のうまく言えない後味の悪さ

誰もが最初は「おっ!」と思ったはずなんだ。でも、こうして連作を見てくと、見たかったような、見たくなかったような、モヤモヤとした感情が胸に広がってくる。しかも、いろんな種類のモヤモヤが混じってる感じ。グリコのCM「25年後の磯野家」は、そんな複雑な後味をかもし始めた。批判が難しいCMだ。だから、丸飲みして、面白いね、と言って片付けたほうが楽である。

でも、胸に気持ち悪さがどうしても残るので、整理しておきたい。

まず、人気マンガの実写版というモヤモヤ。古くはジャッキーチェンの「シティーハンター」。最近ではアメリカ版「ドラゴンボール」。どちらも「誰が望んだ実写化なんだよ」というやつだ。でも、サザエさんって「人気マンガ」なんだろうか。長年愛されてきた国民的アニメ、と呼ぶことはできても、人気マンガとは呼びにくい。スラムダンクとかと並列にはできないだろう。

これはマンガの実写版ではなく、国民的アニメの実写化である。だから既存の実写化に対する批判がちょっとズレている気がしてくる。しかも「25年後」という批判のズラし方が効いていて「あくまでも25年後ですから」というお目こぼしが期待できる。しかも放送が終わっていない。現役である。これまた前例がないから、扱いにくい。なにかモヤモヤをぶちまけられるとしたら、

「原作者に失礼だ」

という、怒りだろう。どんな実写版でも一番怒るのは熱烈なファンである。でも、ここで疑問。

「サザエさん」に熱烈なファンなどいるのだろうか。

サザエさんは、長い年月をかけてみんなが共有してきた幸せの家族モデルである。古き良き日本の風景みたいなものだ。昭和ニッポンの家族像であり、古典みたいなところにまで足をつっこんでいる。すんごく好き、という人はいないし、すんごく嫌いという人もいない。「サザエさんが大好きですか」という問いに「すっごい好き!」と答える人はいない。だから、怒る寸前にひとつの疑問が心をよぎる。

「俺って、そんなにサザエさん好きだったか?」

どっちでもないという人が大半だ。そんなに言うほどのことでもないし、という歯止めがかかる。でも、なんか口をはさみたくなっちゃうんだ。

カツオが、浅野忠信かぁ。
ワカメが、宮沢りえねぇ。
タラが瑛太で、イクラが小栗旬なんだ。

別にいいんだけど、そうじゃないんだよな、という感覚。はじめは目につかなかったものが、連作を通して細部がだんだん気になってくる。キャスティングとか、その後の設定とか。一発目に感じなかったものが、二作目、三作目にじんわり浮かんでくる。しかも、それが力説すべきものではないところがやっかいだ。

それだけ「サザエさん」という他愛もないものが、大切なものなんだと思う。日本人に深く根ざした「深層心理の善」なのだと思う。原作に敬意をはらって、とてつもなく丁寧につくってるのはわかる。しかし、誰もが納得しなければならないCMはないけれど、誰もが納得しなければならないネタを取り上げていることに対して、自覚的なのかを問いたくなる。日本総国民を相手にしていることに気づいているのだろうか。

グリコにそんな気はないと思うのだ。

CM史に残る「作品」かもしれないが、今はいいけど後々の後味が微妙になってくる。どうしても気になるはずだし、無理が出てくるはずだ。びっくりした、でやめときゃいいのに。金がらみのCMじゃなくて同人誌でコソコソやったり、酒飲み話にしとくのがちょうどいいネタである。サザエさんの未来をいじっていい企業などない。サザエさんは、みんなのもの。

「25年後の磯野家」は、サザエさんの未来化を通して過去の幸せを教えてくれた。何気ないものが幸せだったんだな、って気づかせてくれたことに関しては感謝している。ただ、そのことが分かった今、次回作がオンエアされるたび「これって、やっちゃいけないことなんじゃないか」って気づきはじめている段階だと思う。少なくとも俺の後味の悪さはこれだ。このCMって、何気ないけど、すんごい大切なものを傷つけているんじゃないかって。続編ができるたびにハラハラする。気にしすぎか。

text by 副編

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2009年5月 1日 (金)

北野誠謝罪会見のすばらしき茶番

歴史と伝統が培った上質なホスピタリティを備えるウェスティンホテル大阪で、北野誠が謝った。何について?誰に対して?

「慢心があり、未熟さが出てしまった。」

だから、それは何のこと?

「あらためて発言することによって、むし返すことになり迷惑をかける」

じゃあ、これ意味あるの?
と、問いつめる人はいない。

今回の題名のない謝罪会見は、ネットで流れている予備知識がけっこう正確であることを示したと思う。
そして、

「本当のことは、電波では伝えられない」

ということを、ますますくっきりさせた。テレビには言えないことがある、だから言えないことのほうに興味がいく。テレビがつまらなくなったと言う人がいるが、テレビに映らないことのほうが面白いことに気づいたから、つまらないと思えるようになってきたんだと思う。

こうなると、テレビは「まっすぐ伝わらないこと」を念頭に作っていくしかない。

美味とかお得とか誠意とか努力とか「善きこと」ほど嘘くさく、失言とか犯罪とか脱税とか「悪しきこと」は拡大される。 今だにテレビショッピングの芝居にだまされる人はいない。悪は極悪に、善は偽善に。その真実の原形は残らない。
こういう状況が加速してるから、テレビはどんどん卑屈になって自己否定をしつづける。

「テレビじゃわからないと思いますが、これすごく美味しいんです」
「テレビでは見せられないけど、自衛隊の実力は凄いんです」
「オンエアできないんですけど、楽屋では面白いんです」
「番組では恐い人に見えるけど、ふだんは凄くいい人なんです」

なんだかこればかりも、あまりに芸がない。
こんなことばかりしてるから、結局テレビは「虚」だからつまんない。と言って、ドキュメント番組を礼賛する人が現れる。反対に「虚」でもいいよとありきたりのバラエティーの作られたお笑いを楽しむ人がいる。極端に、二種類の分かれ方をしていくような気がする。もうちょっと意識して虚と実の間を笑って遊んでいいと思うんだが。「ガキの使い」みたいに。

ラジオでは伝わらないこと。
テレビでは伝わらないこと。
ネットでは伝わらないこと。

というふうに、どれだけ技術が発展しても「伝わらない」ほうに魅力は残る。価値がありそうに聞こえる。それは、埋められない真実の余白、つまり想像できる部分が一番面白いからだと思う。ヘアヌードよりセミヌードのほうがそそられる理屈だ。

そういう意味で言うと、北野誠の件は現代メディアをフルに使って、想像力をかつてないほどに刺激してくれた。これからのテレビに求められる評価されるべき「すばらしき茶番」だと思う。テレビというボケが、ネットというつっこみをはっきり認識した事件、と言い換えてもいい。

text by 副編

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