岸部四郎の空しさを追体験する空しさ
自他虐CMというのは、余裕があるから楽しめる。
「金はない。時間はある。」
岸部四郎だから笑っていられるけど、年金暮しの老人が出ていたら、笑えない。出てはいないけれど、実際に苦しい年金生活者はあのCMが流れたら、割とシリアスな表情をすると思う。若者には「金はない。時間はある。」の後に「じゃあ働けよ」と続けることができるけど、老人は「でも、どうすれば‥‥」となる。ケータイゲームでもやるかな!となるほどの開き直りはムリだろう。ふつう老人ゲームやんないし。
「金はないけど、時間はある。」のが青春で、「金はないのに、時間はある。」というのが年金暮らしである。どっちにもとれるわけだが、後者の「時間」は残酷である。岸部四郎を笑っているつもりだが、金のない老後を送っている人もいっしょに笑っている、と考えるとひどいCMだ。あのCMを悪者にするつもりはない。でも、面白いけど笑った後の後味が悪いような気がしませんか。そんな気がしない人は、幸せな人だと思う。
自虐ではなく他虐CMではあるが、岸部四郎が許される人格だったりしているから、まだ救いがあるように見える。岸部四郎の実人生のリアリティーはあるけれど、岸部四郎の実人生は一般人にとってフィクショナルな感じがする。金はゼロどころか、マイナスだし。だから、社会的弱者じゃなくて岸部四郎の人生だけを笑っているという気持ちにさせられる。キャスティングの妙と言える。
けれどもだ。そもそも「金はない。時間はある。」だから「ケータイゲーム」というのは果てしなく空しい人生である。読書があったり、人と話したり、季節のうつろいを楽しんだり、いろいろあるが、この選択肢は寂しい。あのCMが教えているのは、ケータイゲームそのものの空しさである。ゲームというのはそこまで悲しいものではないけれど、そういう切り口で描いている。
だから、あのCMに共感してサイトにアクセスしてゲームしている人がいたとしたら、自分が笑われていることに気づいていない人である。そこには岸部四郎の人生はなく、自分の人生が広がっているわけだから。金はなく、時間だけがあって、小さな画面を見ながら指をうごかして過ぎてゆく1日がある。ただでさえ空しいのに、CMが描く岸部四郎の人生とリンクして、その空しさは底なしである。岸部四郎の空しさを疑似体験してみたいという悪趣味で楽しむならば、まだ楽しめるかもしれないが。
ケータイゲームは、人生の空しさを教えてくれる。金持ちはケータイゲームはしないのである。そう思ったとき「世の中は金である」というCMに見えた。
text by 副編
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