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2008年10月22日 (水)

岸部四郎の空しさを追体験する空しさ

Shiro_2

自他虐CMというのは、余裕があるから楽しめる。

「金はない。時間はある。」

岸部四郎だから笑っていられるけど、年金暮しの老人が出ていたら、笑えない。出てはいないけれど、実際に苦しい年金生活者はあのCMが流れたら、割とシリアスな表情をすると思う。若者には「金はない。時間はある。」の後に「じゃあ働けよ」と続けることができるけど、老人は「でも、どうすれば‥‥」となる。ケータイゲームでもやるかな!となるほどの開き直りはムリだろう。ふつう老人ゲームやんないし。

「金はないけど、時間はある。」のが青春で、「金はないのに、時間はある。」というのが年金暮らしである。どっちにもとれるわけだが、後者の「時間」は残酷である。岸部四郎を笑っているつもりだが、金のない老後を送っている人もいっしょに笑っている、と考えるとひどいCMだ。あのCMを悪者にするつもりはない。でも、面白いけど笑った後の後味が悪いような気がしませんか。そんな気がしない人は、幸せな人だと思う。

自虐ではなく他虐CMではあるが、岸部四郎が許される人格だったりしているから、まだ救いがあるように見える。岸部四郎の実人生のリアリティーはあるけれど、岸部四郎の実人生は一般人にとってフィクショナルな感じがする。金はゼロどころか、マイナスだし。だから、社会的弱者じゃなくて岸部四郎の人生だけを笑っているという気持ちにさせられる。キャスティングの妙と言える。

けれどもだ。そもそも「金はない。時間はある。」だから「ケータイゲーム」というのは果てしなく空しい人生である。読書があったり、人と話したり、季節のうつろいを楽しんだり、いろいろあるが、この選択肢は寂しい。あのCMが教えているのは、ケータイゲームそのものの空しさである。ゲームというのはそこまで悲しいものではないけれど、そういう切り口で描いている。

だから、あのCMに共感してサイトにアクセスしてゲームしている人がいたとしたら、自分が笑われていることに気づいていない人である。そこには岸部四郎の人生はなく、自分の人生が広がっているわけだから。金はなく、時間だけがあって、小さな画面を見ながら指をうごかして過ぎてゆく1日がある。ただでさえ空しいのに、CMが描く岸部四郎の人生とリンクして、その空しさは底なしである。岸部四郎の空しさを疑似体験してみたいという悪趣味で楽しむならば、まだ楽しめるかもしれないが。

Kishi

ケータイゲームは、人生の空しさを教えてくれる。金持ちはケータイゲームはしないのである。そう思ったとき「世の中は金である」というCMに見えた。

text by 副編

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2008年10月 8日 (水)

八百長について

 私たちは様々な八百長を知っている。

 亀田一家がタイ人とばかり戦い、バイト感覚の相手に勝つ八百長。プロレスが真剣勝負に見えないことに対する「八百長だろ」という声。そして、目下話題沸騰中の「相撲の八百長」。どれも「いんちきだろ」という義憤の声ではあるのだが、怒る意味はそれぞれに違うと思う。

 まず亀田の八百長だが、これは亀田家とバイト外人だけが喜ぶための八百長である。そこに客の利益はなく、金返せ!という声も妥当だ。これに対して、客の利益=満足感を満たす意味もあるのがプロレスである。そこに客を喜ばせるため、という目的意識があるかぎり、客に怒る価値はない。ある時はショーであり、ある時は格闘技であるから、そのあいまいさ、深みを楽しめない人は怒るだろうが。

八百長だろ!の声には、プロレスから言わせれば、たぶん「じゃあ、ガチって何」って話になってくると思う。本当のガチは刑務所に入るぐらいの覚悟でやることだろう、って話になる。ルールを作ってガチで闘うんだ、というけれど、プロレスにはそのルールのなかに「お客さんを意識すること」というルールが入っていると思う。そのルールというか理想を守りながらやっている、と思う。本当の本当のガチって誰も見たくないものだとレスラーは知っているんじゃないかな。

で、亀田の話に戻ってしまうんだが。亀田の場合、その客の目線を意識していたのか、どうなのかってところが微妙なラインである。仮に意識して「おもしろいやろ」と思って八百長をしかけていたとしても、それをリングでやったというのがまず怒られるポイントになる。リング上で客の目線を意識した物語を見せることは、ボクシングのルールにない。というか、そこを楽しむ客がいない、と言ったほうが正しいか。まあ、十中八九、金と名誉の自己顕示だと思うが。そしてそこにTBSの利益がさらにからんでいる。

さて、最後の八百長、元若ノ鵬の件。ここで気になるのは、相撲ファンの中にプロレス的な物語を楽しむ人がいたかどうか、ということだと思う。(勝ち)星を買う、という相撲用語を知っていて、なお楽しんでいたプロレス的なファンがいるはずである。それでも強いやつは強いから、と気にしないで取り組みを楽しんでいたと思う。そして心から相撲は国技だ!汚れの許されない真剣勝負だ!と思っていたボクシング的ファンもいるだろう。この2種類のファンにとって、「八百長の真相」とはどういう意味をもつんだろうか。

プロレス的な見方をしていたファンは「いまさら」という顔をするだろうし、ボクシング的な見方をしていたファンは「まさか」という心苦しい思いだろう。一番喜ぶのは、2種類のファン以外の「世間」なのだと思う。相撲をそんなに好きでもない人がヒールと化した相撲協会のスキャンダルを楽しんでいるだけだと思う。悪趣味だ。

けれども、罰することによって「伝統」が変わった後の角界への興味は誰もがあると思う。だけど本当に相撲のために八百長を暴くのなら、そこに利益がからんじゃいけない。いま、問われているのは姿勢である。八百長問題と角界問題をつなげ、実態以上にみせて物語化して稼ごうとするその報道姿勢だって、利益がからめば世間を喜ばせるための八百長みたいなもんになるんだから。

text by 副編

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