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2008年9月25日 (木)

キムタクについて

Kimurataro_2

どうしてキムタクはキムタクのまま、CMに出れるのだろうか。そして出るのだろうか。キムタクが踊ればギャッツビーのCMだし、コーヒー飲めばジョージアのCMだし、パソコンいじればFMVのCMだし、カメラをいじればニコンのCMなわけだ。ぜんぶのCMをつなぎ合わせたら、キムタクの日常が出来あがると思う。そんなのつくってどうするの。

キムタクを使っていることをブランドだと言いはるのは貧しい発想だ。しかも、ニコンといいFMVといい、出てもらってる感じがするのはなぜだ。カップヌードルの「CHANGE」の件もそうだ。キムタクは毎度キムタクのまま、何様的なゲストな感じで商品を語る。キムタク嫌いということをさっぴいても、何様だと思う。キムタク様か。

いまやキムタクの自然体は、ベタベタな高級ブランド品である。高級ブランドをありがたがる企業の性根に、ブランドとかいうもんが宿るはずがないのに、それでも欲しがる。どれだけ背伸びしても、やっぱり貧乏気質が抜けない。「え、キムタク使えるの、やった!」という貧乏感覚は共感できる。でも、単純にキムタクキムタクって「同じ服着てて恥ずかしくないか?」と思う。

「キムタクの自然体」というものが、いつ世間で共有されはじめたのかはわからない。企業が自然体を強いているのか、キムが自然体を演じたがるのか、タクの演技が下手だから自然体になってしまうのか、それともそのすべてなのかは知らない。

ただ、ひとつ原因としてわかることは、キムタクCMがつづけられることで「キムタクの自然体」が世間に刷り込まれたのは確かだ。「キムタクがキムタクをしている」ことに関して、もう誰も意味(つっこみ)を求めない。鳥は今日も飛ぶ。サラブレットは今日も走る。キムタクは今日もCMに出ている。あなたは今週、何度キムタクを見たか覚えているだろうか。もはや風景の域に達した。それは不自然なんだけど。

キムタクはテレビに出まくるがゆえに、ずんずん客体化されている。それぞれの立場で違って見えるはずのキムタクを、「誰にとっても同じに見えるはずのキムタク」としてテレビで垂れ流されることによって、「別の見方」を抑圧し、「決められた特定の見方」を教育されているような気がしている。

いまやキムタクは、もはや自分は他人に近い、という感覚を持っているのではないだろうか。

だからキムの名言、

「だてにキムタクやってないっすから」

は、すべてを言い表わした至言だと思う。主体である自分を、客体として、切り離してる。

テレビに出すぎる人は、消費されすぎると「自分」という主体がぼやけていく。なんだか自分がわからなくなるよ、という状況に陥っちゃったりするんじゃなかろうか。それは単なるナルシズムとは違ってい、大量の誰かの目線が別の自分を作り上げていく特殊な状況じゃないだろうか。

デーモン小暮などの非日常を商品とする人は「自分」という主体は守られるが、「自然体」という日常を切り売りする人は客体化されることにジレンマを感じていると思う。本当の俺ってなんなんだろう、と思ったりすると思う。

それが長年続くと、もうテレビの中に本当の俺はいない。何をやってもキムタクはキムタクとされる。他者の目線があなたの自然体に関わっている以上、もうそれは不自然だよ。と言っても、もはや何も耳に入らないし、入れてもらえないだろう。批判も屁とも思わず丸呑みだ。そういうの、腹にたまると思うんだが。

キムタクが解放されるには、老いさらばえて劣化するのを待つしかないのか。だが「キムタクって年とってもかっこいい!」がもうすでに始まっている気がする。キムタク、人生に逃げ場なし。それはテレビらしい喜劇である。

Kimotaku
キムタクが変わるはずはない。

text by 副編

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2008年9月18日 (木)

野田凪さん、死去に寄せて。

Nagi

9月7日、アートディレクターの野田凪さんが亡くなられたそうです。この報を知ったとき「野田凪」という人の仕事を思い浮かべると同時に、谷川俊太郎の「えをかく」という詩をいっしょに思い出しました。

************************
えをかく
 
まずはじめに じめんをかく
つぎには そらをかく
それから おひさま と ほしと つきをかく
そうして うみをかく

それから かいといかをかく 
めにみえない たくさんの プランクトンをかく
ゆきをかく こおりをかく しもをかく
そうして いろんな あめをかく

ゆうだち さみだれ てんきあめ 
ひさめ はるさめ おおあらし 
みずたまりをかく
にじをかく そのしたに いっぽんのきをかく 

ねっこと みきと えだと はっぱと 
はなと このみと そらへのびる
こずえをかく そうしてやっと 
ひとりの こどもをかきはじめる

まずかおのかたち ふたつのめ 
ふたつのみみ はな くち
それにまゆばも かみのけも
それから からだ

うでとあし かたとおなか せなかとおしり 
おへそとしんぞう くびとゆび
はだかで ちょっとはずかしそうなら
パンツをかく むぎわらぼうしも かいていい

そして そのこのたってる みちをかく 
みちのはずれに いっけんの こやをかく
えんとつをかく まどととびらをかいて 
なかへはいり おなべをかく 

もえている ひをかく 
じゃがいもと ねぎをかく 
おかあさんをかく ふとんをかく 
あかりをかく テーブルと いすをかく

えんにちをかく ぼんおどりをかく 
あれはてた たんぼをかく 
しわくちゃの おばあさんをかく
いっぽんいっぽん しわをかく

それから えのどこかに 
じぶんの なまえをかく
そして もういちまい 
しろいかみを めのまえにおく
 
まずはじめに じめんをかく

************************
 
じめんからはじまり 
かいて かいて かいて かいて
じめんに終わる

この詩は、人間の死のようで、なんとなく「えをかくひと」の人生が思い浮かんでしまいます。そして、なかでも、とくに野田凪という人に、似合うような気がしています。ご冥福を祈っています。

Nodasan

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皆様に怒られて6周年。

好きなものをバカにされると人は本気で怒る。どうしてそんなくだらないことで怒るのかわからないときは、好きなものをケナしてしまったときだ。昨日、友人のおじいちゃんと話していて、時代劇をバカにしたら突然、胸ぐらをつかまれた。ほんとうに好きなものは、ほんとうに好きだからこそ心の底に隠されている。「何も知らないくせに」という怒り方があるが、知らなかったのはあなたが気持ちを隠していたからだ、という反論ができると思う。

ある少年野球チームの名前を笑ったら、そのチームに加入する少年の母親らしき人に真面目にしかられた。サントリーの監督を批判したら、本人かファンらしき人から嫌味を書かれた。織田裕二のテンションを笑ったら、事務所らしき人から「織田のがんばりを知らない」と指摘を受けた。くぅちゃん(倖田來未)からエロをとったら何も残らない、と書いたら嫌がらせメールが多発した。長渕剛ファンサイトTOP OF HUNGRYを「空腹の頂点」と直訳したとき、猛烈に怒られて削除した。

かんたんにこのサイトを振り返るだけでも、怒りは愛の裏返しだった。愛があるからこそ怒れる。そして、そうだとしたら、俺は今、コンサドーレをけなされて怒ることができるだろうか、不安になる。今はもう、プロレスをけなされて怒ることはできないかもしれない。

「何も知らないくせに」と怒られて悟ることは、そこまで好きなのね、という感慨だ。私は本人よりも長渕ファン、織田ファン、くぅちゃんファンが好きになった。よく怒る人というのは、恐い人ではなく、愛情深く傷つきやすい人だと思うから。

いま、日本人を怒らせるのは至難の技である。価値の多様化というやつで、日本人が怒るポイントも、複雑化しているなと思う。

韓国が竹島を占領しても怒らない。
子どもが悪いことをしても怒らない。
でも、長渕をバカにしたら本気で怒る。

という人だって、いるかも知れない。

最後に、大ヒットDVD『温厚な上司の怒らせ方』の説明文が、「怒」というものを考える意味を非常にうまく言ってる気がするので、引用してシメとしたい。

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「私は、人を苛立たせたり、怒らせたり、気持ち悪がらせるなど、人にネガティブな影響を与えるコミュニケーションを研究することで、つまり、世界の「闇」を直視することで、同時に、私たちが 生命(いのち)を授かったこの地球(ほし)を輝かせたい、そのように考えているのです。 」

碑文谷潤(東京東海大学言語学教授)
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皆様に怒られて6周年。
これからも何卒よろしくお願いいたします。

Text by 副編

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2008年9月17日 (水)

つまんない日記についての日記3

前回にいつ書いたか記憶がないが、また、つまんない日記についての日記をつけてみたい。これだけブログというものが一般化してくると、なぜ俺は日記を書くのか、と自分と見つめ合っていることに気づかないで悩んでしまうものなのらしい。日記って本来鏡面なんだと思えば、なんてことはない。

王様の耳はロバの耳!と、叫んだ床屋は、現代なら匿名で掲示板にアップするだろう。床屋が投げ込もうとしていたのは孤独であり、求めたのは共有だからして、穴に叫んだところで解消されるものではない。たぶん、どこかにつながっていることを望んでいたはずだろうと思う。

この床屋の叫んだ穴とブログは似ている。個人ブログはストレス発散である、というのは建前で「孤独の発散」というのが正解だろうとニラんでいる。

書くという作業は常にひとりであるからして、孤独である。それが読まれている実感がないとさらに孤独は深まる。アクセス数が少しは解消に役立つだろうが、なんというか孤独の数値化のようで、これまた寂しい話に思えてくる。1日1000アクセスの人が、1日10アクセスの人より喜ぶというのは、誰かが誰かより孤独じゃないことを立証をしているようで、とても寂しい話だ。

もともと手で書く日記は自分だけが見る心の鏡だったんだと思う。でも、日記ブログは「床屋の穴」になっているわけで、なんか自分の日記がへんだぞ、いつの間にか日記が愚痴ばかりだ、という人は、不特定多数の誰かに聞こえるような独り言という逆説的状況に気づかぬうちにはまっている。日記に読者がいる、日記にコメントがつくっておかしいんだから。

「日記」という言葉にとらわれると混乱する。誰かに読んでもらうための日記って変。日記じゃないよそれ、って思う。じゃあ何?って言われても答えを用意していない。無自覚に共感を誘うのと、自覚的に共感を誘うのとではまた違うわけだから。また、後で考えてみます。

ネタが無いと日記を書くのが辛いって言うけど、じゃあ、書かなきゃいいんじゃない。書けない日がある、って言うけど、あるんじゃないの。だから「いつの間にか、日記が愚痴ばかり」と愚痴をこぼされても、困るよ。この逆説的な媒体を楽しまないと、辛いだけだと思うよ。

って、誰に言ってんだか。

Text by 副編

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2008年9月11日 (木)

コンビニ舞台

どうして夜、会社帰りにコンビニに寄ってしまうんだろう。まっすぐ帰ったほうがいい。べつに今買うべきものはない。でも、家に帰ってしまう前にふらりと立ち寄ってしまう。

たぶん、そこで会社と家の間にあるものを、仕事と生活の間にあるものを、探しているんだと思う。会社に奪われた自分の時間とか、家庭に奪われた自分の日常とかを、そこで埋めようとしているのだと思う。

街が寝静まった深夜、コンビニだけが闇に浮かび上がるように光っている。観客のいないステージのように光が落ちている。徹夜つづきで朦朧としていたから、気がつけば入口のドアを引いている。中にはひとり、おかしな格好の小男の客がいる。

山高帽というのだろうか。やけに背の高くなる黒い帽子をかぶり、下は黒いスーツを切り落とした半ズボン。すね毛は丁寧にそられていて、この蒸暑い夜にもブーツをはいている。立派な口ヒゲをたくわえているが、小男なだけに滑稽な印象だ。そしてコンビニのカゴを片手にもち、もう片方の手では黒い鞄とステッキを器用に握っている。

ほんとうの奇人かと思ったが、今日行われた大道芸人のイベント「だい・どん・でん」のことを思い出して納得した。そういう人がコンビニにいても不思議ではない夜なのだ。

大道芸人は、弁当を見ていた。のり弁を手にとっては首をひねり、スパゲティ−に目をやっては焼きうどんにも気をとられ、最終的に幕の内にいった。幕の内をじっと眺め、他の幕の内と比べていた。ときどきステッキを落した。そして選び抜いた幕の内の中の幕の内を持って、まっすぐレジへ歩いた。俺はビールを買って後ろに並んだ。

レジで店員は戸惑っていた。彼は「だい・どん・でん」のことを知らないのだろう。このへんな格好をした小男が何者かをはかりかねていた。奇人か、変人か、変態か。かごをレジ台に載せるとき、大道芸人は鞄とステッキをどさりと落した。面倒なのか、拾うそぶりすら見せず、いよいよ危ない奴に見えてきた。

支払いをすませて弁当をあたためている間、大道芸人は店員に怪しく笑いかけた。店員は「?」という顔をしていたが、サっと顔が青ざめた。大道芸人がスーツの裏ポケットにゆっくり手を差し込む、その仕種がちょうどナイフか何かを取り出しそうに見えたからだ。

「‥‥なんですか」

店員の声はふるえていた。
大道芸人はポケットから、さっと手を抜いて叫んだ。

「そォら!」

瞬間、店員は一歩のけぞったが、
ポケットから飛び出たのは、3つのボール。
ふわり、ふわりと宙を舞った。
ジャグリングだ。

「チン」と弁当があたため終わると、芸も終わった。
大道芸人は袋を下げて、あっさり出ていった。
店員は夢でもみているように惚けていた。

俺が会計を済ませコンビニを出ると、すぐそこで大道芸人が縁石に腰かけ、弁当を無心でパクついていた。イベントの打ち上げに出る金もないのだろうか。

大道芸人は俺を見なかったのか、見ないようにしていたのかはわからない。


text by 副編

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