キムタクについて
どうしてキムタクはキムタクのまま、CMに出れるのだろうか。そして出るのだろうか。キムタクが踊ればギャッツビーのCMだし、コーヒー飲めばジョージアのCMだし、パソコンいじればFMVのCMだし、カメラをいじればニコンのCMなわけだ。ぜんぶのCMをつなぎ合わせたら、キムタクの日常が出来あがると思う。そんなのつくってどうするの。
キムタクを使っていることをブランドだと言いはるのは貧しい発想だ。しかも、ニコンといいFMVといい、出てもらってる感じがするのはなぜだ。カップヌードルの「CHANGE」の件もそうだ。キムタクは毎度キムタクのまま、何様的なゲストな感じで商品を語る。キムタク嫌いということをさっぴいても、何様だと思う。キムタク様か。
いまやキムタクの自然体は、ベタベタな高級ブランド品である。高級ブランドをありがたがる企業の性根に、ブランドとかいうもんが宿るはずがないのに、それでも欲しがる。どれだけ背伸びしても、やっぱり貧乏気質が抜けない。「え、キムタク使えるの、やった!」という貧乏感覚は共感できる。でも、単純にキムタクキムタクって「同じ服着てて恥ずかしくないか?」と思う。
「キムタクの自然体」というものが、いつ世間で共有されはじめたのかはわからない。企業が自然体を強いているのか、キムが自然体を演じたがるのか、タクの演技が下手だから自然体になってしまうのか、それともそのすべてなのかは知らない。
ただ、ひとつ原因としてわかることは、キムタクCMがつづけられることで「キムタクの自然体」が世間に刷り込まれたのは確かだ。「キムタクがキムタクをしている」ことに関して、もう誰も意味(つっこみ)を求めない。鳥は今日も飛ぶ。サラブレットは今日も走る。キムタクは今日もCMに出ている。あなたは今週、何度キムタクを見たか覚えているだろうか。もはや風景の域に達した。それは不自然なんだけど。
キムタクはテレビに出まくるがゆえに、ずんずん客体化されている。それぞれの立場で違って見えるはずのキムタクを、「誰にとっても同じに見えるはずのキムタク」としてテレビで垂れ流されることによって、「別の見方」を抑圧し、「決められた特定の見方」を教育されているような気がしている。
いまやキムタクは、もはや自分は他人に近い、という感覚を持っているのではないだろうか。
だからキムの名言、
「だてにキムタクやってないっすから」
は、すべてを言い表わした至言だと思う。主体である自分を、客体として、切り離してる。
テレビに出すぎる人は、消費されすぎると「自分」という主体がぼやけていく。なんだか自分がわからなくなるよ、という状況に陥っちゃったりするんじゃなかろうか。それは単なるナルシズムとは違ってい、大量の誰かの目線が別の自分を作り上げていく特殊な状況じゃないだろうか。
デーモン小暮などの非日常を商品とする人は「自分」という主体は守られるが、「自然体」という日常を切り売りする人は客体化されることにジレンマを感じていると思う。本当の俺ってなんなんだろう、と思ったりすると思う。
それが長年続くと、もうテレビの中に本当の俺はいない。何をやってもキムタクはキムタクとされる。他者の目線があなたの自然体に関わっている以上、もうそれは不自然だよ。と言っても、もはや何も耳に入らないし、入れてもらえないだろう。批判も屁とも思わず丸呑みだ。そういうの、腹にたまると思うんだが。
キムタクが解放されるには、老いさらばえて劣化するのを待つしかないのか。だが「キムタクって年とってもかっこいい!」がもうすでに始まっている気がする。キムタク、人生に逃げ場なし。それはテレビらしい喜劇である。
text by 副編
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