泣ける映画は、こころの風俗。
人は液体を出すことに、快感を覚える生き物だと思う。さわやかな順に例を並べると、汗をかく運動、涙をこぼす体験、せいえきを分泌するセッ○ス、血液を流す闘争‥‥グロくなるのでこのへんでやめる。
なかでもこの「カラダから液体を出す」という現象がもっとも美化されているものが「泣」だと思う。最も美しい排せつ行為、と言えるかも知れない。涙の理由は科学的にはっきり解明されていないし、心の作用だからそれぞれに違う。なぜ、涙が出るのだろう、とか、わざとらしく問いかけてくる青春の腐臭漂う歌詞があるが、流している本人は説明はしきれないけれど、なんとなくわかってる。言いかえると、なんとなくしか説明できない。説明しきれる涙はない。
解明されていない、ということはオカルト的でもあるわけなんだけど、なぜか怪しさや不思議は漂わない。涙を流すということがどういうことか、科学をこえた実感があるから。映画で泣くのは、そこに自分と重ね合わせる部分を見つけて、感動のエピソードを自分のものとしているからだと思う。母が恋しい息子は、母が死ぬシーンで泣くだろう。男に捨てられた女は、ヨリを戻すシーンで泣くだろう。映画に泣いているのではなく、映画と自分の体験との重なる部分を見つけて、泣いている。
単純に言えば、それはイメクラである。
例えば、かっこいい男が出てきて、うつくしい女と恋をする。別れる。もしくは、どちらかが死ぬ。悲しいエピソード。そこに自分を投影する。わかりやすいほどベタな筋書きは、欲望をダイレクトに解消する風俗を思わせる。
なんで、泣きたいのか。ストレス発散とか、気持ちいいから、という生理のお話に他ならない。「泣ける○○」とは、生理的なものを解消するために、直接的な方法をとっているということだろう。「泣ける映画」に飛びつく人を気持ち悪いというか、なんだかなぁ‥と思う原因は、脇目もふらずに風俗に直行するオヤジに対する嫌悪感と似ているからかもしれない。
「泣ける映画」に行く人は、風俗的な欲求の解消に後ろめたさを感じていない。気づいてすらいない。涙って美しいもんだから。でも、欲望まるだしってどうだろうか。これじゃイメクラだ、と思った瞬間、私はその映画ではもう泣けない。でも、気持ちいいから泣く、という自分の生理的欲求に正直な人もいるだろう。編集長なら、その気持ちはわかるはずだ。
「泣ける」という動詞は「自然と泣いてしまう」という意味の自発表現だったが、いま可能動詞の「泣くことができる」という意味に変わっている。その用法は、可能動詞「ヌける」と似ている。欲求の解消が第一目的、というような生臭い用法であることが「泣ける映画」を観て泣く人に対する嫌悪感の正体なのかもしれない。映画の観客が「泣けました!」とかのたまうCMがあるが、大げさに言うと「ヌけました!」と言ってのけてるもんである。その人にとっては、映画はこころの風俗なんである。なんだか下品だなぁ。
泣けるベタ映画に行く人は、イメクラに通う人と変わらない、と思う。そこに行く人は悪くない。ただ、もうちょっと恥ずかしがってもよくないか。
以上、オカズが多すぎる「陰日向に咲く」の感想でした。
Text by 副編
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