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2005年12月26日 (月)

恋愛のボーダーをこえる男

「サッカー選手で言えば、
 どれくらいのブス度なの?」

と、言う私の問いに、編集長は即答した。

「ジダンクラスのブスかな」

フランスワールドカップのあった1998年。編集長はバロンドールクラスのブス専だった。当時の彼女は、彼曰く「街をいっしょに歩けないような顔」で「でもスゴいテクを持つ女」だった。「顔?電気消せば気になんねーよ!」と強気発言をくり返し、その度に私は「風俗嬢じゃないんだから」という反論をのみこんだものだ。彼の語気は強かったが、目には光がなく、視線は空中のどこか一点を見つめていた。そして、小さく「付き合ってるのは、なりゆきだがね」と付け加えた。そんな彼に、その女の名前が本名ではなく源氏名っぽかったことは、もちろん指摘できるわけがない。

次の彼女へ移行したとき、私はまた訊ねた。

「そのデブ度をストライカーにたとえたら、
 どれくらいの選手なの?」

「ロナウドクラス」

日韓ワールドカップのあった2004年。編集長はバロンドールクラスのデブ専に成長していた。彼は、偉大な登山家のような遠い目をして「新しい世界が見えたよ」と言った。「なりゆきだがね」と付け加えるその目に以前のような悲しみはなく、つきあっていることをフィクショナルなものとして捉える境地にあった。その女がホストに入れあげ、借金苦で行方をくらませ、彼のもとにその連絡が届いた時、もちろん彼はさらなる浮き世の境地へと旅立った。「もういいんだよ、もう‥」という言葉を残して。

そして、まもなく2006年。ドイツワールドカップの年が迫っている。養老 孟司などの木っ端識者には知る由もない「ブスの壁」「デブの壁」を乗り越えて、次に挑むは「年齢の壁」。つまり年増に挑むのだ。「つきあったら、狂っちゃいそうなんだよ」という言葉と裏腹に、彼の目はベルリンの壁を乗り越える東ドイツ人のような輝きに満ちていた。そう、編集長は、つねにボーダーに挑戦しつづける男なのだ。ボーダフォンなんかとは比べようもない次元で。

ボーダフォンは「家族割引で家族間のボーダーを超える」などとのたまうが、人と人とのつながりを金勘定で越えるというメッセージ事体が軽薄である。「家族のボーダーをこえる」=「家族間のケータイ料金が減る」=「家族の会話が増える」がどれだけ冷えきった家庭に空しく響くだろうか。業界内では革命的なんだろうが、広告が描くいつもの幻想にすぎない。あれを見て心動かされるのはよほど幸福な人である。

さらに言えば、日清のカップヌードルの標榜する「ノーボーダー」という壮大なメッセージも、誰が必要としている壮大さだろうか。地球的だからってカップヌードル食わない。「カップヌードルに国境はない」というメッセージのスケールは、日清は大きな会社であるという、犬も食えないモニュメントだ。過去にあった広告「hungry?」のほうが、よっぽど「地球的規模だぞ!」という企業エゴをうまく料理し、「ハラ減ってる?」という世界的共通の実感を訴えるものにしていたと思う。

編集長は、いつも胸が張り裂けんばかりの冒険心に満ち溢れ、同時に弱々しい不安を抱えている。だからこそ、この挑戦は、あたたかみのある人間くさい実感としてあなたの胸を打つと思う。

この前、近況を聞いたら、彼は言った。

「最近、その女といっしょに飲んでるんだ。やべえよ」

なにが「やべえ」のか。心して、続報を待ちたい。
2006年、「年齢の壁」崩壊の年。編集長の「つきあったら狂いそうな女」との恋愛が幕を開ける、はずだよね、編集長。

text by 副編

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2005年12月25日 (日)

ひろし論

「ひろし」と言う名前には、人を惹きつける引力がある。日本中に散らばる「ひろし」という「ひろし」は、私の中で特別な意味を持っている。その呼称の平凡さが、ボンクラ感を醸しているからだろうか。「ひろしでいいや」という名付け時のあきらめを読み取るからだろうか。芸人の「ヒロシ」なんて、ポッと出の「ひろし」などの話ではない。ひろしの持つ、奥深くマの抜けた魅力がなんとか伝わればと思う。何も年の瀬にこんな話をしなくても、という感じなんだが、好きなことを自由に書いて更新をはじめるきっかけにしたい。

まず、「ひろし顔」というものが存在する、と思う。例えば、名波浩(ジュビロ)の特徴のない地味目の顔はまさしく「ひろしたるべくしてひろし」という感。また、ちびまるこちゃんと、クレヨンしんちゃんのお父さんが同じく、さくらひろし、野原ひろしとしているところもポイントが高い。何のポイントだ。とにかく、凡ようの象徴としての「ひろし顔」というものは、無意識のどこかに確かに存在している。ぜひ、同意を得たい。布施博の当たりさわりのない中身の薄そうな凡な笑顔を見ると、「ひろし」という、顏つきを決定づけるDNAがあるのかとさえ思えるほどだ。

次に、正統派ひろしを挙げる。関口宏、 久米宏、木佐貫洋、荒川博、三上博史、奥寺浩(イソップ)などなど、名だたる「まっとうな、ひろし」がいるが、皆、下の名前で呼ぶような人ではない。関口さんとか、久米さんとか、苗字の方に呼称の比重は傾く。「ひろし」の持つマヌケ性を活かし切っていない、ひろしの持ちぐされ達である。活かす必要がないのかもしれないが。

そんなのといっしょにすんじゃねえ!とばかりに怒り出す極悪ひろしもいる。その代表格が、加藤浩志(ビーバップハイスクール)だ。ビーバップ世代の放つ「おい、ヒロシ!」という言葉は、言ってる本人がちょっとなりきって言うほどの、不良性を帯びたものだった。ビーバップがなければ、あんなひろし像はうまれなかったに違いない。戸塚宏(戸塚ヨットスクール校長)がその流れをくんでいるようだが、このジャンル最強のヒロシは、本宮ひろ志(漫画家)であろう。

生島ヒロシ、黒鉄ヒロシ等のカタカナも独特の尾を引く生臭さが残るが、ひろしの持つヌケた感じを最大限に発揮しているのが、平仮名の「ひろし」だろう。まず、代表的な五木ひろしがいる。そして館ひろし、タチにあやかって登場した猫ひろし。かまやつひろしも、そういやひろしだ。ちょっと深く入ると、ガモウひろし(漫画家)やあしたひろし(漫才師)もいる。そしてなんといっても「ド根性ガエルのひろし」だろう。「ビーバップ加藤」とはまた違う意味での「おい、ひろし!」の存在を気づかせてくれる。平仮名で一気に脱力ひろし系。前出の人々も「ひろし仲間」というひとくくりで見ると、もはや逃れられぬマヌケに陥る。

親がどんな思いで名付けたか知らないが、これほど願いが届かない名前も見当たらない。同じヒロシでも、久米宏のようにスノッブでうさん臭いナイスミドルもいれば、本宮ひろ志のように「これが男じゃ!」と心にバンカラを羽織り生きる漢(おとこ)もいる。「三上博史のように育ってほしいと思って‥」とかいう理由で「ひろし」と名付けたら、 藤岡弘や権藤博、井手博士(らっきょの本名)、円広志、輪島大士、はたまた柳生博のような男になってしまうのだ。名付けで「ひろし」は、生来最初のかなりのバクチである。

最後に、そんなひろしワールドを余すところなく体現している男を紹介したい。彼は過去に「とんねるずのオールナイトニッポン」でネタになっていたほどの、ひろしオブひろしだ。その名も

芝草宇宙(元日ハム)

宇宙と書いてひろしと読む、壮大でありながら庶民的というカタルシス。もうわけがわからない。まさしく宇宙というほかない。人は何故ひろしと名付けるのか、ひろしは何故これほど跋扈しているのか。そこに理由はなく、色即是空の理をあらわす。ひろし。そこに無限の深遠があるのかもしれない。ないのかもしれないが。

text by 副編

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